最近、何の気なしに近世ヨーロッパ社会について少し調べてみると、ホント、当時の西欧の連中の身勝手さというかやりたい放題に対して改めて愕然!
いわゆる「大航海時代」(=植民地開拓という名の侵略・他民族虐殺時代)に最初に乗り出したとされるのがポルトガル。
少し遅れて、ポルトガルに負けじとばかりに、張り切ったのがスペイン。
これに歩調を合わせたのがキリスト教宣教団で、西欧列強の海外侵略と布教はワンセットとなっていました。
◎ローマ教皇が海外侵略のお膳立て
1493年、当時のローマ教皇アレクサンデル六世がスペインとポルトガルの勢力分界線を決めた「教皇子午線」を定めました。
大雑把に言うと、この境界線は北アフリカの西の沖合で大西洋の中央あたりを通過する子午線でした。
ホント、勝手なことしてくれちゃってますよね~。
世界は「わがもの」だから、自分たちで何を決めてもいいんだという傲岸不遜な意識が丸見え!
◎なぜ、1493年?
もう、皆さんもお気づきの通りですよ。
前年1492年にコロンブスがカリブ海諸島に到達したから(コロンさんは「インド」を発見したつもり)です。
早速、「うまい汁にありつけるぞ、急げ!」と思ったスペインが教皇アレクサンデル六世と連携プレーをしたというわけ。
そうなんです。
このアレクサンデル六世は、スペイン出身で、あのチョーザレ・ボルジアの父親。
まさに、身びいきの権化で一族の繁栄しか頭にない俗物中の俗物!
ちなみに、このアレクサンデル六世は「史上最低・最悪の教皇」として悪名高い人物でございます。
◎ポルトガルの対応は? トルデシリャス条約とは?
当然、ポルトガルも唯々諾々ではありません。
ポルトガル国王がスペイン国王と交渉して、教皇子午線をさらに西側(西経四十六度三十七分)に移動させることで合意。
これに基づき締結されたのが、「トルデシリャス条約」です。
この条約の効力は
ポルトガル⇒アフリカ・アジア地域におけるスペインの影響力を排除できた。
スペイン⇒ブラジル(当時ポルトガル領)を除くアメリカ大陸全域に進出が可能となった。
この二国の身勝手な条約によって、世界を二分割したことを「デマルカシオン体制」(=世界領土分割体制)と言います。
ふざけてますよね~、当時のスペイン、ポルトガル、そしてローマ教皇の独善性・強欲・傲慢・選民意識・残虐性、、、、
あ、コロンブスなどはカリブ海諸島で5万人を超える先住民を虐殺してますからね、念のため。
一説によると、1502年から1542年までの間に、中南米で2580万~2880万人のインディオ(先住民)が征服戦争の犠牲となったとされています。
◎スペインもポルトガルも過去に対して何の反省もしていないのでは?
前述した「デマルカシオン」の基となった「トルデシリャス条約」の原本は2007年にユネスコの記憶遺産に登録されました。
もちろん、スペイン・ポルトガル両国が共同で申請したからです。
ポルトガルは、1994年にトルデシリャス条約500年を記念したコインを発行しています。
今でも、誇らしげに、過去の世界侵略・植民地化・先住民の虐殺を堂々と顕彰しているのです。
◎今回はこの辺で
当記事で紹介したデマルカシオンは、その後、1529年の「サラゴサ条約」で境界線が変更となりますが、またの機会にしたいと思います。
先日、アップした読書感想の『戦国日本と大航海時代』でも書きましたが、信長や秀吉のおかげで日本は西欧列強の植民地にされずにすみました。
信長の慧眼に感動!
秀吉の決断と実行が日本を救った!