当ブログで、もう何度も書いたように、お釈迦様自身はお経を読んでもいないし、仏像を拝んでもいない。
経典も仏像も釈迦入滅後、かなりの時を経てから生まれたものだ。
では、生前のお釈迦様、歴史人物としての釈迦は何をどのように語ったのか?
今回は、数々の仏典の中で、最も古い聖典のひとつとされる『スッタニパータ』から、ブッダ(=お釈迦様)の言葉や説法を少し紹介したい。
では、早速、以下に『スッタニパータ』の「第一 蛇の章」からお釈迦様の言葉を引用する。
⇒「蛇の毒が広がるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者は、この世とかの世とを、ともに捨て去る。蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである」
いきなり、蛇が登場するから、「え?」と思うかもしれないが、インドないし南アジアは蛇が多く生息し、どこでも見られる。
日本の都会暮らしの人には、ピンとこない譬えであろうか。
しかし、当時の人びとは「蛇の脱皮」の譬えで、「あ~、なるほど」と納得したのであろう。
⇒「奔り流れる妄執の水流を涸らし尽くして余すところのない修行者は、この世とかの世とを、ともに捨て去る。蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである」
お釈迦様の話は、比喩が多い。
ここでも、人間の「妄執」を「奔り流れる水流」に譬えている。
釈迦在世の時代は、今から二千数百年前のことだから、人々は現代よりもずっと自然を身近に感じていたのだろう。
だから、激しい水の流れや蛇の脱皮という、日常生活の中でよく目にする光景を比喩に用いた話をすんなり理解できたと思われる。
では、次に、対話型の説法の例を見ていこう。
ある人が、お釈迦様に以下のように尋ねた。
⇒「この世で人間の最上の富はなんであるか。
いかなる善行が安楽をもたらすのか。
実に味の中での美味は何であるか。
どのように生きるのが最上の生活であるというのか」
この問いに対して、お釈迦様は次のように説いた。
⇒「この世では信仰が人間の最高の富である。
徳行に篤いことは安楽をもたらす。
実に真実が味の中での美味である。
智慧によって生きるのが最高の生活であるという」
次に、「第二 小なる章」から、一例を紹介する。
ある人が以下のような質問をお釈迦様に尋ねた。
⇒「多くの神々と人間とは、幸福を望み、幸せを思っています。
最上の幸福を説いてください」
これに、お釈迦様は、このように答えた。
⇒「諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人々を尊敬すること、これがこよなき幸せである。
適当な場所に住み、あらかじめ功徳を積んでいて、みずからは正しい誓願を起こしていること、これがこよなき幸せである。
深い学識があり、技術を身につけ、身をつつしむことをよく学び、ことばがみごとであること、これがこよなき幸せである。
父母につかえること、妻子を愛し護こと、仕事に秩序あり混乱せぬこと、これがこよなき幸せである。
施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと、非難を受けない行為、これがこよなき幸せである。
悪をやめ、悪を離れ、飲酒をつつしみ、徳行をゆるがせにしないこと、これがこよなき幸せである。
尊敬と謙遜と満足と感謝と時に教えを聞くこと、これがこよなき幸せである。
耐え忍ぶこと、ことばのやさしいこと、諸々の道の人に会うこと、適当な時に理法についての教えを聞くこと、これがこよなき幸せである。
修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎを体得すること、これがこよなき幸せである。
世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること、これがこよなき幸せである。
これらのことを行うならば、いかなることに関しても敗れることがない。
あらゆることについて幸福に達する。
これがかれらにとってこよなき幸せである」
いやはや、最上の幸福については、お釈迦様は細かく、長々と説いている。
さて、ここまで読んでもらいましたが、常連さん方はどんな感想を持ちましたか?
なんか、いわゆる「お経らしさ」がないな~、と思いませんか?
最初期の経典の一つである、この『スッタニパータ』は全編、このような調子。
そこには、阿弥陀さまや大日如来は登場しない。
『般若心経』のような「このお経は最高・最強の呪文である」などの宣伝文句もない。
『理趣経』のように、とことん「現世利益」を約束する文言もない。
後世の大乗仏教経典に見られる煩瑣な教理や、種々多様な仏の一団(釈迦以外の如来、菩薩、明王、天)も一切、登場しない。
まあ、当時のインドの土俗神らしいものは時々、顔を出すこともある。
例えば、「神霊」とか「夜叉」などの言葉が出てくるが、あくまで脇役であって、何か特別な働きをするわけではない。
とにかく、お釈迦様が人間として正しく生きる道を比喩を交えたりもしながら、具体的に説いている。
これが、本来の釈迦仏教だったのであろう。
当ブログは、別に日本の鎌倉仏教を否定するわけではないが、もし、お釈迦様が浄土系や日蓮系の教えを聞いたら、驚愕して卒倒するかもしれない。
「え?阿弥陀如来って何、誰?『南無阿弥陀仏』と唱えたら、極楽浄土に往生できる?何、それ?」と唖然とするはず。
「ん?『法華経』って何?初耳だが、、、、『南無妙法蓮華経』とは、一体何なんだ?意味不明だよ」と呆れ果てるに違いない。
あまり、本来の仏教と大乗仏教の違いについて触れても仕方がないので、この程度で。
ということで、今回は最初期のお経の内容をほんの一部だけ、取り上げた。
また、機会をみて、『スッタニパータ』から本来の「釈迦説法」を抜粋・紹介してみたい。