「自称・天皇」たちは南北朝時代を利用する ~ 自称「熊沢天皇」の場合

戦前、皇位や皇族を僭称すれば、不敬罪として処罰の対象であった。
しかし、大東亜戦争後の一時期、GHQによる占領統治下で自らを皇位継承者であると自称するのもが各地に何人も出現した。
もちろん、全員がニセモノである。

その不届き者の中でも、最も有名なのが愛知県が生んだ「熊沢天皇」である。
本名を、熊沢寛道(1889~1966)という。
この熊沢は、南朝の子孫だと自称した。

では、南北朝について簡単に説明したい。
事の発端は、鎌倉時代末期に後嵯峨天皇の二人の皇子の間で起きた皇統を巡る争いにあった。

後嵯峨天皇は、第二皇子の後深草天皇を退位させ、第三皇子の亀山天皇を践祚(せんそ)させた。
(践祚とは、天皇の位につくこと)
その後、後嵯峨天皇が後継者を指名せずに崩御したために、兄の後深草天皇と弟の亀山天皇の間で大きな対立が生まれ、皇室が分裂。

後深草天皇側は持明院統、亀山天皇側は大覚寺統という二つの系統に割れて、皇室が分裂する。
持明院統が後の北朝、大覚寺統が後の南朝となった。
この二つの朝廷が並立する時代には、皇位継承に幕府が仲裁に入る形で影響力を行使し、継承順位を決定する権限を武士側が握った。

その後、幕府の仲裁の中で、持明院統と大覚寺統が交互に天皇を出していた(これを、両統迭立という)。
表面上は穏便に両統が共存共栄していたが、大覚寺統の後醍醐天皇が即位してから、事態が動いていく。
天皇の討幕計画が始まり、正中の変や元弘の乱などを経て、鎌倉幕府は滅んだ。

後醍醐天皇は幕府が滅んだ翌年に年号を「建武」と改元し、天皇親政を行った(これが、建武の新政・建武中興)。
しかし、当初は後醍醐天皇側だった足利尊氏が離反し挙兵したことで、この建武政権は崩壊する。
この時代に、あの有名な楠木正成が活躍するのだが、割愛する。

京都を制圧した足利尊氏は、持明院統の光明天皇を即位させた後、後醍醐天皇と和睦し、自らは室町幕府を創設した。
ところが、和睦の際に渡した三種の神器は偽物であったと後醍醐帝が宣言し、京都を離れ吉野に南朝を開き、皇位の正当性を主張する。
こうして、北の京都と南の吉野で朝廷が二つに分裂・抗争する「南北朝時代」の幕開けとなった。

ここから、北と南の朝廷が互いに正統性を唱え、武士に呼びかけては味方につけた。
両統は、京都はもちろん、各地で衝突し、幾度も大規模な戦いを繰り広げる。
約60年に及ぶ、この南北朝時代は、一種の乱世と言ってよい。

さて、「簡単に」と言ったわりには、かなりの分量になってしまった、ハハハ。
話を自称・天皇の件に戻す。

このように、非常に混乱した時代であったため、出自・経歴を詐称しようとする者にとっては非常に都合がよかった。
多くの怪しげな連中が、南北朝時代という、ある種の歴史の空白期間を悪用したのだ。

では、愛知県の有名人、自称・熊沢天皇の場合はどのようなものであったのか。
熊沢の主張は、熊沢家の先祖が南朝の後亀山天皇の孫であるとするもの。
熊沢家には、これを証明する系図もあれば、代々伝わる「南朝の御神宝」もあると熊沢は語っていた。

この熊沢家は、かなりのやり手というか、策謀慣れしているというか、実は、熊沢の父親が明治時代に同様の騒動を起こしている。
熊沢寛道の父親である熊沢大然は、明治39年に、「後亀山天皇の直系子孫である」旨の請願書を提出している。
さらに、大正元年にも、熊沢大然は再度、同様の請願書を出したが、当然、相手にされなかった。

一般的にいうと、個人の家に伝わる系図とやらは、あまり信用できないものが多い。
大昔から、日本には偽系図づくりを生業とする者がいる。
特に、江戸時代には、裕福な商人や地主の間で、箔付のために自分の家系を貴族や武士の末裔だと粉飾することが一大ブームになったという。

要は、金さえ出せば、いかにも立派な、それらしい「系図」が手に入ったのだ。
熊沢家は、かなりの資産家一族だったようだ。
総本家、本家、分家などと細かく分かれており、各家によって家紋が異なるという。

この自称・熊沢天皇が、他の偽物たちよりも知名度が高いのには理由がある。
戦後、熊沢はGHQのマッカーサーにあてて、自分が「南朝の正統後継者」である旨の請願書を送った。
これが契機となり、アメリカのメディアの目に留まり、米の雑誌等で紹介される。

雑誌『ライフ』には、熊沢の写真入りの2ページのインタビュー記事が掲載された。
また、『ニューズウィーク』誌も熊沢を紹介したし、AP通信やロイターなどでも報道された。
一説によると、熊沢の一件は、皇室の権威を低下させることを狙ったGHQの陰謀であったとか、なんとか、、、、、

すっかり有名人となった、この自称・天皇は昭和26年に、昭和天皇は正統な南朝側から不法に帝位を奪ったから不適格であるなどと、とんでもないことを主張して東京地方裁判所に訴えた。
当然、却下。
本当にもう、お騒がせな人物ですこと。

もともとは、この熊沢寛道は、若き頃には浄土宗西山派の専門学校で学び、同宗同派の布教僧をしていた。
その後、還俗して、名古屋市で洋品雑貨商を開業したそうだ。
まあ、山師ではあるが、なかなか興味深い人物ではある。

南朝と北朝、南北朝時代は調べると、いろいろと興味をそそる事実がある。
日本史好きにとっては、話題の宝庫といったところか。
また、折を見て、この時代を取り上げたいと思う。