男系女性天皇シリーズの第二弾。
今回は、孝謙天皇(称徳天皇)です。
周知の通り、孝謙天皇は重祚しました。
それが、称徳天皇です。
孝謙天皇は聖武天皇の第一皇女です。
母は光明皇后。
では、聖武天皇からの流れをごく簡単に記すと
聖武⇒孝謙⇒淳仁⇒称徳⇒光仁⇒桓武となります。
「聖武」と「桓武」という誰もが知っているビッグネームに比べると、やや、孝謙(称徳)天皇はなじみが薄いかもしれません。
ただし、後述するように、周辺人物として藤原仲麻呂や僧の道鏡も登場しますので、この機会に、重祚した女帝として、皆様の記憶にとどめて置いてください。
◎ 孝謙天皇(718~770年 在位749~758年)
749年、聖武天皇から譲位されて即位しました。
日本史上、六人目の男系女性天皇です。
七人目は、なんと江戸時代の明正天皇(在位1629~1643年)となります。
孝謙朝の政治は、光明皇后(孝謙天皇の母)と藤原仲麻呂(=恵美押勝)が主体となって行われたと言われます。
光明皇后の父親は、もちろん、藤原不比等、そして蛇足気味ですが、不比等の父は中臣鎌足(=藤原鎌足)です。
仲麻呂は不比等の孫の一人ですから、光明皇后は仲麻呂の叔母にあたります。
この時期、藤原氏一族がいかに政権の中枢を担っていたかが、よくわかります。
◎ 孝謙(749~758)⇒淳仁(758~764)⇒称徳(764~770)
*( )内は在位期間
758年、孝謙天皇は大炊王(=淳仁)に譲位し、太上天皇となりました。
淳仁天皇は、天武天皇の孫です。
淳仁天皇は、仲麻呂の計略により擁立されたようなものだったので、実権はすべて仲麻呂が握っていました。
しかし、光明皇太后が薨去し、あの道鏡が台頭することにより、仲麻呂の権勢も衰えていきます。
孝謙太上天皇も道鏡を優遇して、いよいよ苦しい立場に追い込まれた仲麻呂は、反乱を企てます。
しかし、その計画はまもなく発覚して、仲麻呂は一族とともに捕えられて、処刑されます。
淳仁天皇も仲麻呂との共謀を責められて、淡路に流され、その後、崩じます。
764年、孝謙上皇は、淳仁崩御の後、重祚(ちょうそ)して称徳天皇となりました。
◎ 女帝と仲麻呂と道鏡
俗っぽい話題で申し訳ありませんが、巷間では、女帝は最初は仲麻呂と、次に僧である道鏡と深い仲になっていたとかいないとかの説があるようです。
さて、ここで、ブログ主の師、今東光大僧正に得意の「毒舌」でもって、その辺を語ってもらいましょう。
今東光『対談 日本発掘』から、引用します。
「(道鏡は)一応、密教、加持祈祷を心得ていたんですね。それだものですから、孝謙天皇のご病気平癒というときに彼が登用されて、たちまち気に入られた。
ところが、そのとき孝謙天皇には彼氏がいたんだよ。藤原仲麻呂という。あまりにこにこして笑顔がかわいらしいんで、いやらしいね、恵美押勝とかなんとか名づけて、孝謙天皇もすけべえだわ。
彼をみていると自分がにこにこしてくるというんだろうな『恵美押勝と名前を変えよ』とかなんとか、かわいがっていたんだけど、道鏡にもみ倒されたら、道鏡はんの方がよろしいわということになって、乗り変えちゃったんだよ。
それで恵美押勝は腹を立ててやきもちをやいて、兵を挙げて近江で殺されるんだけれども、、、、、」
引用は、これぐらいにしておきます。
今東光節を堪能していただけたでしょうか。
それでは、大僧正の語りを楽しんでもらったところで、今回の孝謙天皇(称徳天皇)の巻は終了させていただきます。
追記
道鏡に関しては、あの有名な「宇佐八幡神の託宣」がらみの一件に触れなければ、とは思っていますが、、、
またの機会にしたいと考えています。