◎まずは、廃藩置県のイメージと現実について。
日本史の概説書あたりを開くと
「木戸孝充・大久保利通ら政府の実力者たちは、中央集権体制を確立するため、明治4年7月、中央の軍事力を整えたうえで、速やかに廃藩置県を断行した」などと説明している。
これを読むと、徳川時代から明治4年まで二百数十年にわたって続いてきた「藩」を一気に廃止して「県」を置いたと思ってしまう。
というか、当ブログもずっとそう思っていた。
幕末ものの映画や小説、テレビ番組などでは、「薩摩藩」だ「長州藩」だ「土佐藩」だのがガンガン登場するし、そもそも、「江戸時代と言えば、、、、そう「幕藩体制」で~す」と連想してしまうからだ。
江戸時代の武士も町人も、「尾張藩」とか「岐阜藩」とか「小倉藩」とかを、会話や書面の中で使っていたものだとばかり想像していたのが、、、
ところが、最近、ある歴史評論家の著作物に目を通していると、意外な(?)事実を初めて知って驚いた。
それは、「藩」という用語は公式には、なんとわずか二年間しか存在していなかったのだ!
まあ、ブログ主が不勉強なだけだが、、、、
この専門家によると、明治2年の「版籍奉還」の際に、公式の名称として初めて「藩」という語が誕生したらしい。
その「藩」が、明治4年の「廃藩置県」で「県」と改められた。
従って、「藩」は二百数十年どころか、ほんの二年間しか用いられなかった制度。
では、江戸時代の人びとは、どんな呼称を使っていたのか?
例えば、会津の場合、「松平肥後守御領地」などと呼んでいたようだ。
また、殿様自身が領地に言及する時には、「国」を用いることもあった。
ついでに言うと、紀州の殿様に対しては、「紀州侯」のように「侯」を使った。
ただし、これまでの説明と矛盾するようだが、「藩」が幕末に使われた事実もある。
その件は次項にて。
◎では、「藩」の出どころは?
支那の漢の時代、郡国制度を採用した際に、皇帝が重要な地域を直轄地とした。
そして、それ以外の辺境地域は地方の諸侯が支配する「藩」に任せていた。
さて、この大陸由来の「藩」を、江戸時代の儒学者の一部が、徳川将軍を「皇帝」、大名を「諸侯」、その領地を「藩」と支那風に当てはめたことがある。
しかし、これは朝廷を軽視しているために、この思想は一般化せず、「藩」という用語も普及しなかった。
江戸時代、一部の儒者が提案した「藩」の使用は広まらなかったものの、幕末になると、長州で自らを「長藩」と名乗るのが流行したようだ。
この「藩」を、全国の志士たちが模倣した。
このような流れから、明治維新後に徳川将軍から天皇へと統治が委任されたことで、漢と同様に見なしてもよいのではないかとの観点から、明治2年の「版籍奉還」で「藩」が公式名称として誕生したという次第。
*話が前後して申し訳ないが、明治政府は旧幕府直轄領を接収し、「府」と「県」に再編していた。
◎じゃあ、「県」はどこから?
これは、もう皆さんお気づきのように、古代支那の郡県制に由来する。
ご存じ、秦の始皇帝が採用した中央集権制度において、全国を36(後に46に増加)の郡に分けて、官吏(=役人)を派遣して統治したもの。
(何度も、当ブログで書いたように、「China」の語源が「秦」であり、ラテン語では「Sina」となる)、
その「郡」をさらに複数の「県」に分割して支配した制度が「郡県制」である。
明治政府は、中央集権国家を目指したために、秦の郡県制に倣ったのであろう。
◎廃藩置県の内容を大雑把に見てみよう。
(簡単に言うと、明治2年から、「府・県・藩」という三種類の行政単位があったのを、明治4年に「府・県」の二つに整理したのが廃藩置県であるが、以下にほんの補足を)
明治4年7月、廃藩置県により、三府三百二県が誕生した。
ちなみに、「府」とは重要都市を意味する言葉であり、三府は東京・京都・大阪の三つ。
早くも、同年の11月には、統合整理が行われて、三府七十二県へと再編成された。
その後も細かい変更が入り、明治9年に現在の四十七都道府県に近い形となった。
さらに、その後も微調整をおこない、明治21年の香川県独立をもって、四十七都道府県が成立したのである。
◎おわりに
今回、取り上げた廃藩置県については、陰謀論が渦巻いている分野のひとつらしい。
⇒戊辰戦争で負けた側は、藩が分割された云々。
⇒九州の県庁所在地が県名なのは、官軍だったから云々。
他にも、賊軍は城を壊された、などなど、様々な俗説があるようだ。
またの機会に、このあたりも「小ネタ」として紹介したいと思っている。