「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽浄土に往生できる ~ 釈迦が聞いたら、絶句するに違いない。
悟ったものには、その証拠として印可を与える ~ そんなシステムをつくった覚えはない、と釈迦はたまげるだろう。
護摩をたいたり、真言を唱えて現世利益を願う ~ おい、おい、それってヒンズー教だろ?と釈迦ならツッコミを入れるはず。
一切の忖度をせずに、判定すると日本の仏教各宗派の教えは「釈迦仏教」ではない。
つまり、感情論を抜きにして、純粋に論理的に結論を出すと、大乗非仏説は正しい。
これは、ブログ主の素人考えではない。
現代の仏教学は大乗非仏説をほぼほぼ承認している。
ただし、この「ほぼほぼ」がクセモノであり、以下に少々細かい意見を紹介する。
(けっこう煩雑なので、面倒くさい方は、ここでストップしてください)
◎大乗仏教擁護派の主張
大乗非仏説に対する専門家の反論をいくつか見ていく。
その下の( )内にこちらの感想を記入。
*大乗仏教や大乗仏教経典は釈迦の直説(=釈迦の教え)であると主張する立場
大乗非仏説を真っ向から否定する意見である。
(ちょっと無理筋ではないだろうか?)
*大乗仏教の教学は釈迦の直説ではないかもしれないが、釈迦の教えに準ずるとする立場
例えば、三法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)は釈迦仏教にも大乗仏教にも共通する根本教義であるから、大乗仏教は仏説であるとする意見である。
(これは、割と説得力があると思う)
*大乗仏教は釈迦以外のブッダ(=真理に目覚めたもの)が説いた教えであるとする立場
釈迦以後の時代に、別の修行者(達)が悟りを開いて説いた教えが大乗であるとする意見である。
(釈迦仏教は「釈迦一仏」の立場だから、この主張は説得力に欠けるのでは?)
*大乗が非仏ならば、初期経典にも新旧の教義が混在しているから、非仏と言われかねないと主張する立場
(なんか、「死なばもろとも」感があるというか、開き直っているなと感じる)
専門家により、反論の内容は違うが、現代の大雑把なコンセンサスとしては、以下のような解釈がある。
⇒釈迦が大乗仏教の教義を説いたわけではないが、後代の修行者たちが開発して発展したものが大乗である。
◎素人の戯言を言わせてもらうと、「別に、非仏でもいいんじゃないの?」
最後に、勝手な意見を。
別に、大乗仏教が非仏であろうと、その教理・教学が優れていれば、問題なしと思うのだが。
釈迦仏教には存在しない「阿弥陀如来」に帰依して、信者が救われるのなら、それでいいのではなかろうか。
歴史的・学問的に見て、大乗非仏説が成立しても、「信仰」の立場で「法華経」に魅力を感じるのならば、それはそれで宗教としての役割を果たしていると考えてかまわないと思う。
そもそも、宗教とは、そんなものが多い。
キリスト教などは、イエス存命の時代には、「宗教」の形態を備えていない。
周知のとおり、「キリスト教」を生み出したのはパウロである。
もちろん、新約聖書もイエスが在世のころには存在しない。
イエス没後の、紀元180年ごろに新約聖書の形が整ったのだ。
また、言うまでもなく、イエスは「三位一体説」など唱えていない。
彼の死後、数百年経てから、この教義が生まれ、381年のコンスタンティノープル公会議において「正統教義」と認められた。
ついでに確認すると、「聖母信仰」なども、本来のイエスの教えとはまったくの無関係である。
クリスマスやイースターなども後世になって、取り入れられた行事で、イエス本人が聞いたら、「何、それ?」と言うに違いない。
つまり、宗教は変化する。(⇐まさに、「諸行無常」「諸法無我」)
宗教とは一種の生き物、有機体である。
釈迦仏教から大乗仏教へと変化した。
その変化を「前進」ととるか、「後退」ととるか、「深化」ととるか「堕落」とみなすか、結論を出すことは極めて難しい。
大乗仏教肯定派は、大乗は釈迦仏教を「深化」させたと考えている。
小乗(上座部)はそれに反論したいのだろう。
おおいに、論戦すればいいと思う。
平和的に、教理問答を繰り広げれば、双方にとって有益なことではないだろうか。
ただし、暴力はだめ。
あくまで、冷静に、理性をもって議論を戦わせてほしい。
仏教以外の宗教をみると、過激な連中が平気で恐ろしいことをやらかすので、、、
仏教には、そうならないで欲しい、心の底から。
追記
仏教には関心があるが、特定の「宗派」には全然はまっていない。
様々な教義について調べることは興味深い。
また、宗教人には魅力的な人物が多いので、いろいろな逸話に感動することも多々ある。
今後も、冷静に、淡々と、仏教と付き合っていきたい。