さて、今回は「大乗非仏説」について。
これまでも何度か、名前だけは紹介していましたが、いよいよその内容に触れていきましょう。
◎大乗非仏説とは?
大乗仏教の経典の内容はお釈迦様が説いた本来の教えではないという学説のことです。
え、ちょっと待ってくださいって言いたくなりませんか?
日本の仏教宗派はすべて大乗仏教に属すると考えてほぼ間違っていません。
ということは、天台宗も真言宗も浄土宗も日蓮宗も全部、釈迦の教えではないことになります。
浄土真宗も臨済宗も曹洞宗もすべて偽物ということ?
日本人はまがいものをずっと信仰してきたのですか?
さてさて、、、
◎では、そもそも、本来の「釈迦仏教」とはどのようなものなのか?
極力、煩雑にならないように、核心部分を挙げていきます。
*「縁起 えんぎ」
⇒ものごとは「原因」があり、様々な「条件」があって、その結果としておこるものである、という教え。
原因や諸条件があり、結果が生まれるという、因果関係のことを意味すると考えて大筋正しいとされています。
ただ、釈迦仏教の縁起は「一因一果」ではなく、「多因多果」ととらえる方がよい、と専門家は語ります。
なんか、科学っぽいと思いませんか?
換言すると、迷信的な匂いが全然しないと言うか、論理的な思考態度だと個人的には思います。
注意すべきは、俗にいう「縁起がいい・わるい」のような意味ではありませんので、誤解なきように。
この「縁起」を細かくみていくと、「十二縁起」という概念が出てきますが、説明が長くなるので割愛します。
*四諦(したい)=四つの真理(を悟りましょう)
・苦諦(くたい)=生きていくことは「苦」であること
・集諦(じったい)=「苦」の原因は「執着」であること
・滅諦(めつたい)=「執着」を滅することが悟りの境地であること
・道諦(どうたい)=悟りにつながる実践法が「八正道」であること
四つの「諦」が、順番につながっていることにすぐ気づきますよね。
人の人生は「苦」であることを悟りましょう⇒そして、その「苦」の原因は人の内なる「執着=煩悩」であることを悟りましょう⇒そして、「執着」を滅却すれば、「悟りの境地」に達することができるのです⇒その「悟りの境地」に達するための具体的な実践法が「八正道」です。
実際には、この後に、「八正道」を紹介すべきですが、今回は省きます。
あと、以下に挙げる有名な仏教用語はご存じでしょう。
*諸行無常=世の中のあらゆるものは、絶えず変化し続けている(という真理)。
*諸法無我=世の中のあらゆるものに、不変の実体や本質はない(という真理)。
本当に、大雑把にお釈迦さまの教えの一部を確認してみました。
煩雑さを避けるために、未紹介のものが多々ありますので。
最後に、もう一点だけ。
*お釈迦様自身は「お経」を唱えていなかったし、「仏像」などを一度も拝んだこともありませんでした。
経典も仏像も釈迦入滅後に、現れたものです。
くどいようですが、ココは重要です!
◎改めて「釈迦仏教」の内容を確認した後の、個人的な感想
*「縁起」にしろ「四諦」にしろ「諸行無常」にしても、筋道の通った整然とした思考・世界認識で、宗教色があまり感じられません。
宗教というよりも「哲学」というか一種の「学問」(しかも、実践をともなう)のような趣きがあると感じます。
きわめて、冷静で理性的な宗教(?)と判断するのが妥当ではないでしょうか。
◎一方の大乗仏教(ここでは、日本の宗派の例)
*浄土宗・浄土真宗
⇒信仰の中心は阿弥陀如来への帰依
⇒「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽浄土に往生できる、との教え
「釈迦仏教」には、「阿弥陀如来」など存在しないし、「極楽浄土」など設定していない!
*日蓮宗
⇒信仰の中心は『法華経』、または日蓮への個人崇拝
⇒「南無妙法蓮華経」と唱えれば誰もが救われる、との教え
「釈迦仏教」には、『法華経』など存在しないし、日蓮など釈迦入滅の千数百年後に産まれた異国の人物であり、釈迦とは全く無関係である。
*禅宗(臨済宗、曹洞宗)
⇒「釈迦仏教」にもあったひとつの修行法である「瞑想」に特化
⇒その実質・実体は支那の道教(荘子)であると専門家は指摘
瞑想そのものは、釈迦自身も行った修行法だが、「宗派としての禅」はインド発祥ではなく支那で発生したものである。
そのためか、悟った者に「印可」を与えるなど本来の「釈迦仏教」とは全く関係のないシステムを構築している。
支那の禅家は道教の出家者集団がもとになっており、「釈迦仏教」とは直接の関係がない。
◎さて、結局どうなの?
いよいよ、大乗非仏説からみた日本の各宗派の位置づけは?、日本の僧は大乗非仏説をどう考えているのか?などの話に入っていくつもりでしたが、、、
なんだかんだで、気が付いたら結構な分量になっていました。
ということで、この続きは次回にまわしたいと思います。