「一向宗」っていろいろあるの? ~ 家の宗派を知ろうシリーズ外伝1

さて、当ブログ常連の磯貝から、「一向宗について、もう少し情報が欲しい」とのリクエストが来ました。
一般的には、鎌倉・室町・戦国時代において「浄土真宗=一向宗」と認識されています。

しかし、実際には「一向宗」と呼ばれた宗派は一つではなく、少々わかりにくい点もあるので、今回はそのあたりにちょっと触れてみます。

では、複数の「一向宗」を見ていきましょう。

1 戦国時代の「一向一揆」という場合の「一向宗」は他宗からみた浄土真宗のことです。

◎「一向」とは「ひたすら」「一筋」と言う意味で、浄土真宗がひたすら念仏を唱えることから来ているようです。
また、浄土教系のお経に「一向専念無量寿仏」とあることも由来であるとされています。

ただし、浄土真宗自身は、この呼称を用いてはいません。
浄土真宗は「浄土真宗」または「真宗」と自称しています。

◎法然が宗祖の「浄土宗」は、親鸞が宗祖の「浄土真宗」に「真」が付いているのが気に食わなかったようで、浄土真宗と呼ばずに「一向宗」と称したといいます。
想像するに、法然上人直系の弟子たちからすれば「なんで、法然上人の弟子である親鸞の宗派が「真」なんだよ!ふざけるな!」という気持ちだったのでしょうか。

2 鎌倉時代の僧・一向俊聖(いっこう しゅんしょう 1239?~1287?)を宗祖とする教団も「一向宗」と呼ばれました。

◎この教団は踊り念仏の信仰集団でした。
一遍(1239~1289年)が宗祖である時宗も、踊り念仏を行うために、混同されることも多かったといいます。
ただし、念仏系の宗派ですから、浄土教系の各宗派と混じり合った状況も生まれたのではないでしょうか。

?3 厳密には異なる浄土教系の宗派を勝手に「一向宗」と呼ぶ人もいたのではないか(ブログ主の推測)

◎当時の民衆が、浄土宗・浄土真宗・時宗の教義をそれぞれ正確に理解していたのでしょうか?
多くの一般大衆は、文盲でしょうから、自分で経典や宗祖の著作を読むことはできなかったはずです。
ほとんど場合は、口伝えで各宗の教えを理解しようとするわけです。

◎そこには、誤解や拡大解釈もあったでしょう。
だから、念仏を唱える人や踊り念仏をする人を見たら、ひとまとめに「一向」とか「一向宗」とか呼ぶ層がいても不思議ではないと思います。

では、次に戦国時代の「一向一揆」について少しだけ。
この場合の「一向」「一向宗」とは、もちろん、浄土真宗のことです。(⇐浄土宗は関係なし!)

◎浄土真宗の勢力拡大の立役者は蓮如(れんにょ 1415~1499年)
それまで未統一であった本尊、法式、勤行の方法を一つに定めました。
最大の功績は、『御文』(=『御文章』)などを用いて、民衆でも理解できる教えを広めていく中で、多くの信者を獲得したことです。
今でも、浄土真宗のお葬式では、『白骨の御文』を読みますよね。

◎浄土真宗(本願寺)は室町幕府と密接な関係を持ち、これを後ろ盾としていた。
なぜ、このようなことが可能だったのでしょうか?

⇒本願寺の代々の門主が血縁によって受け継がれており、門主の子女が権力者と婚姻を結び、武家や公家と姻戚関係を形成したからです。
⇒逆に、これが本願寺が戦国時代の戦乱に深く関係していった原因ともなっています。

◎なぜ、一向一揆は強力だったのか?
*前述したように、本願寺のバックには室町幕府がいましたし、多くの武家・公家と本願寺が姻戚関係にありました。
*一揆に参加した信者の人数が非常に多いことや本願寺の莫大な資金力も大きな要因です。

*信仰の力
⇒極楽浄土の存在を本気で信じれば、死ぬのが怖くなくなるのではないでしょうか。
⇒はなから、捨て身でどんな強い相手にも向かっていったのではないでしょうか。

*秀吉の「刀狩り」以前のことだから、農民といえども武器を所有しているし、扱いにも慣れていたはずです。
また、本願寺が購入した武器を一揆勢に提供しています。

*商工業者や土豪(地侍)や僧侶・僧兵も参加したし、場合によっては有力な戦国大名と連合したのも大きいでしょう。
⇒野心的な土豪は農民門徒の力を利用して、隙あらば自分たちがその地域の支配層にくいこんでやろうと考えたかもしれません。
⇒僧侶は一揆が成功すれば、教団内での地位が向上するから張り切るでしょう。
⇒戦国大名は、あわよくば信長を打倒できるかもしれないと考えて奮闘したのでしょう。

◎加賀の一向一揆(1488~1580年)
加賀では、守護の富樫氏の内紛に関与して、その後加賀一向一揆を経て、加賀国を支配します。
そして、加賀では本願寺が守護のような役割をはたし、室町将軍家の年貢徴収も行っていました。

◎その他の主な一向一揆
*三河一向一揆⇒相手は徳川家康でした。
*石山合戦⇒相手は織田信長で、本願寺は雑賀衆・浅井氏・朝倉氏・その他の武将と連合して信長を苦しめました。
*長島一向一揆⇒相手は織田信長です。
くわしく記述するとキリがありませんので、この辺で。

追記
この時代の浄土真宗(本願寺)は、政略結婚によって世俗の権力(武家・公家)と深い関係を築いていた特異な宗教教団です。
本願寺は戦国大名ともいわば「軍事同盟」を結んでいたわけですから、一向一揆を単なる「ある宗派の農民一揆」と定義するのは現実を映していないと言えそうです。
換言すると、当時の本願寺が一種の軍事勢力の面を持つことをしっかりと認識する必要がありそうです。

磯貝~、こんな感じの回答でいいですか?